思いつくまま

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2007年1月13日 朝日新聞朝刊

平川 克美 リナックスカフェ社長

◆憲法改正 9条,「理想論」で悪いのか

 国論を二分するような政治的な課題というものは、どちらの側にもそれなりの言い分があり、どちらの論にも等量の瑕疵があるものである。そうでなければ国論はかようにきっぱりとは二分されまい。国論を分けた郵政法案の場合も、施行60年を迎えて近頃かまびすしい憲法の場合も、重要なのはそれが政治課題となった前提が何であったかを明確にすることである。
 政治は結果であるとはよく言われる。仮に筋の通らぬ選択をしたとしても、結果において良好であればよしとするのが政治的な選択というものだろう。ただし結果は結果であって、希望的な観測ではない。米国のイラク介入の結果を見るまでもなく、しばしば自分が思うことと違うことを実現してしまうのが、人間の歴史というものである。
 その上で、憲法改正の議論をもう一度見直してみる。戦争による直接の利得がある好戦論者を除外すればこの度の改憲問題は反対派も賛成派も平和で文化的な国民の権益を守るという大義によってその論を組み立てている。
 9条をめぐって護憲派は、広島、長崎に被爆の体験を持つ日本だからこそ、世界に向けて武力の廃絶を求める礎としての現行憲法を守ってゆくべきであると主張し、改憲派は昨今の国際情勢の中で国益を守るには戦力は必須であり、集団自衛権を行使できなければ、国際社会へ応分の責任を果たすこともできない、と主張する。
 なるほど、どちらにもそれなりの正当性があり、等量の希望的な観測が含まれている。しかし将来起こりうるであろうことを基準にして議論をすれば?ず両論は膠着することになる。
 では、確かなことはないのかといえば、それは戦後60年間、日本は一度も戦火を交えず、結果として戦闘の犠牲者も出していないという事実がこれにあたる。政治は結果と効果で判断すべきだというのであれば、私は、この事実をもっと重く見てもよいのではないかと思う。これを国益と言わずして、何を国益といえばよいのか。「過去はそうかも知れないが、将来はどうなんだ」と問われるであろう。現行の憲法は理想論であり、もはや現実と乖離しているといった議論がある。私は、この前提には全く異論が無い。その通りだ。確かに日本国憲法には国柄としての理想的な姿が明記されている。理想を掲げたのである。そこで、問いたいのだが、憲法が現実と乖離しているから現実に合わせて憲法を改正すべきであるという理路の根拠は何か。
 もし現実の世界情勢に憲法を合わせるのなら、憲法はもはや法としての威信を失うだろう。憲法はそもそも、政治家の行動に根拠を与えるという目的で制定されているわけではない。変転する現実の中で、政治家が臆断に流されて危ない橋を渡るのを防ぐための足かせとして制定されているのである。当の政治家が、これを現実に合わぬと言って批判するのはそもそも、盗人が刑法が自分の活動に差し障ると言うのに等しい。
 現実に「法」を合わせるのではなく、「法」に現実を合わせるというのが、法制定の根拠であり、その限りでは、「法」に敬意が払われない社会の中では、「法」はいつでも「理想論」なのである。

◇50年生まれ。著書に「9条どうでしょう」(共著)など

2007年1月4日 朝日新聞朝刊

私の視点
                作家 澤地 久枝
◆憲法60年 明るい年にしていくために

 フィリピン戦線でたたかった大岡昇平氏は、30代なかば、妻子ある身を戦闘に投じられ、死は目前だった。「いま日本が手をあげたら、一番困るのはルーズベルト大統領だな」と思う。ソ満国境の戦闘で命をひろった五味川純平氏は「戦争は経済行為だ」と見ぬいていた。二人のすぐれた文学者の指摘を、この年頭にしっかり思い返したい。戦争体験世代が命をかけてつかみとった「真理」の意味を。
 06年の秋以降、生活が苦しくなったという人たちが増えた。保険料があがり、医療費の自己負担は増え、年金の手どりは減って、この国が「富国強兵」ラインを行く結果が、生活をむしばみはじめている。
 昭和前期の、戦争前夜の世相と似ていますか、という質問は多い。人々が口をつぐみ、世のなりゆきをうかがって腰を引く、その点では、まったくよく似た世の中がまたしても姿をあらわした。
 この国には今も「お上」に対する脅えが生きているのか。ことなかれでゆくことこそ、安全コースという守りの姿勢はなぜなのか。
 このままでは、歴史はくりかえされる。教育基本法をゆがめ、自衛隊法を変えて公然たる軍隊にし、戦争できる方向が選択された。そこに主催者である国民の意思はどれだけ反映されているのか?主権在民をマンガにする政治がまかり通ったのだ。
 戦死者ゼロ、福祉国家を目ざした現憲法下の実績の否認がはじまろうとしている。さらにこの反動的選択は、同盟国アメリカの要望への答であること。つまりは主人持ちの政治であること。命をさしだすだけでなく、アメリカの膨大な軍事費への助っ人の一面をもつことをかくさない。
 大国の誇りにこだわりながら、この国の政治家たちは、従属の現実を無視する。そのアメリカは、イラク侵略の泥沼にあえぎ、まさにもてあましている。小泉前首相はイラク出兵を速断しながら、責任をとらずに退陣、安倍内閣はその政治路線の具体化に忙しい。
 国内の民情悪化とその疲弊は避けがたくなった。選挙で議席を失えば、政治家はタダの人。確実に政治は変わる。政治のあまりの悪さ、露骨さに危機感をもつ市民が全国に生まれた。もうこれ以上の逆コースは認めない。悪法は押し返し、憲法本来の国にもどろうという市民の意志。悪政はおとなしい市民たちを揺さぶり、無視できない運動を拡大しつつある。希望のタネ、希望の灯は、市民運動によって守られる。
 市民は自衛する。武器なきたたかいだ。考えて思慮を深め、おのれ一人の思いからはじめて、おなじ思いの人とつながる発信。負けることのできない、あやうい政治の動きになお、希望をもちつづける熱源は、一人ひとりの心、決意にこそかかっている。「憲法を泣かせるな」を、施行60年目にあたる今年の合言葉にしよう。
 歴史の犠牲となった死者たちを生かす道は、私たちの掌中にある。いかに状況が錯綜し、本質をかくしても、二人の文学者の言葉は、本質を見抜く鍵、真理として私たちを支えている。

白梅や腕に重たき宮参り       2005.2.20

白梅を背にして撮す宮参り      2005.2.20

梅香る優しき雨や誕生日       2005.2.20

犬連れし我踏む霜のさくさくと    2005.1.13

クチナシ

 咲子の訃報を聞いたのは、クチナシの香りが漂う宵であった。享年53歳だったという。年齢を余り気にしない私は彼女の正確な年齢を知らなかった。

 何かの会合で初めて彼女みたとき、懐かしい感じがする人だと思ったのを覚えている。きれいでもなく、変わり映えのしないどこにでもいる、少しだけ好奇心の強い女性のようだった。ただ、どこか浮ついている様子が気になる人であった。話をするようになったのはそれから1年近く過ぎてからであったろうか。
 堂々とした体格、足首の太さは私の好みとは全く違っていたが、長い孤独感を味わってきた私は、懐かしさに惹かれたのかいつしか親しくなっていた。賢くはないが彼女自身についての勘はよかったようである。40歳そこそこでまだ独身であったようだがたちの悪い男にだまされたというような話は聞かなかった。いつも「恋人はいるのよ」といっていたが定かではないし、私にとってはどうでもよいことであった。ただ、気持ちのよい人たちと交流しているのであろうと察しられた。

 親しくなってから頻繁に会いたがる彼女に対して、私の仕事の忙しさと体調不良も重なって煩わしさが募った。彼女の助けになることなんて何もできないと最初から話してあるし、そんなことを期待する人ではなかったが、私は次第に私自身の時間が惜しくてならなくなった。私と離れている方が彼女にとってより幸せな生き方だと確信することもできたので、ある日別れを宣言した。
 かなりショックを受け、にわかには何を言われたのか理解できないようであった。いつも通りに接してくる咲子に哀れさを感じはしたが、もう全てが終わったのでありこれからは何もないのだと分からせることだけに私は神経を集中させ、コンタクトがあるたびに拒否の姿勢をとり続けた。

 別れてから1年後位に2度ほど会う機会があったが、彼女に付け入る隙を見せないように毅然としていようと汲々としていた私。たいした女性ではないと睥睨していた自分の内心を見透かされたようで少し不安になるほど、彼女は最初にあったときのような自然体で、私への好意はそのままにニコニコしているのであった。まさかそれほど賢いはずがないと打ち消す気持ちと、いや案外彼女は賢い生き方をしているのかも知れないという思いが私の中で揺れていた。とにかく接点を持たぬ事に限ると決めていたので拍子抜けの気分であった。
 その後10年以上も彼女からは必要以外の連絡はなかったのは、そのように私が仕向けたからだと思い込んでいたが案外、私の心の動きを先刻ご承知の咲子だったのかもしれない。今となっては知る由もないが、健気さのあった彼女の死はやはり哀れを誘い冥福を祈る私がいた。「クチナシの花の香りはとっても官能的よね」と言った咲子の声がふと蘇り、暗がりにほんのりと浮かぶ白い花を振り返った。

2002.6.11  pm10.20

ひまわり
 蝉の声が聞こえているのに、妙に静かに感じられるひまわり畑の夕方だ。
 暗い色に染まり始めた山並みの上に、まん丸な朱の太陽がやけに印象的だ。地上は金色の何十万本かのひまわりで明るく輝いている。ひまわりの丈は妻の額あたりか。
 「ね、みんな私たちの方を向いて咲いているのよ。なんかいじらしわね。」妻の沙羅が言う。ふっと笑いたくなるようなひまわりの揃い方である。毎年見に来ていても、見るたびに感じる愛らしさがある。それは揃って同じ方向を向いて咲くせいもあるかもしれないなと思う。
 「ひまわりと山並みと夕日のいいロケーションに来合わせたわね。ああ、カメラを持って来るんだったわ。」残念がる沙羅の言葉に、声に出さぬまま相づちを打つ。「ここから見るのが一番だね。」と言い合いながら眺めていると、2歳くらいの男の子がこちらに向かって走ってきた。そしてまた走って戻っていく。
 「あの子のシャツの背中にひまわり、かと思ったら熊のプーさんなのね。かわいい!」子供を持たない妻が嬉しそうに子供の後を目で追っている。「抱っこしてあげるから、おいでよ。」という沙羅の声で男の子は走り寄ろうとして、父親に止められた。もがいて父親の腕を振りほどこうとして、とうとう泣き出した。母親が沙羅に挨拶をしている。子供の要求はかなえられ、沙羅は子供を抱き上げた。
 「ほら、赤い太陽よ。きれいでしょ。」
 「ちゅき?」
 「ううん、あれね太陽なんだよ。」
 「たいよ?」
 「そうよ。きれいねー。これはお花よ、ひまわり。あ、蜂だ。密を吸ってるんだね。これは虫よ、チョウチョになるんだよ。」
 「ばうっ!あ"〜!いっちゃた〜。ねぇ〜。」
 母親は申し訳なさそうに、「すみませんねぇ、もういいでしょともちゃん、ママのところにいらっしゃい。」と抱き取ろうとしたが母親の元へはいこうとしない。沙羅は嬉しそうに笑っていたが、抱き下ろして「バイバイ」と言った。と手をあげて妻に「抱っこ」の仕種をする。「ま、こんなこと初めてだわ。」と言う母親の言葉にいたく満足したのか彼女は再び「ハイ!抱っこ!」と抱き上げた。ひとしきり沙羅の腕にいた「ともちゃん」はママの「おいで」にも応じようとせず、またまた妻を有頂天にさせてくれた。
 「太陽、バイバイしちゃったね。」
 「バイバイ。」
 「うん、バイバイだね。ともちゃんともバイバイね。」
 「バイバイ。」
 「ともちゃん」と別れた沙羅の腕の中には彼がまだいるらしかった。しっとりとして柔らかな感触を愛おしむかのような声音で言った。「ともちゃんにはひまわりも夕日も見えなかったわよね。あの子小さくて、ひまわりの茎と葉しか見えなかったのよね?きれいな太陽や花を見せてやりたかったの、喜んでもらえてよかった。」また静かになったひまわり畑で私は妻の目線の確かさを感じていた。

2000.8.24  am.1.40

コスモス
 朝顔の咲き終えた花を摘もうとしたとき、一輪のコスモスを見つけた。ああ、今年もまたコスモスの季節か……とふと思う。
 もう三十年も昔に妻の夏子が言った言葉を今も忘れずに覚えている。若かった二人は恋に落ち、一緒に暮らし始めたのだった。働いても収入にならず、私は愛しい妻に申し訳なく思いながら、一人落ち込んでいた。
 とうとうパンを2個買うのがやっとの日が来てしまった。朝、1個のパンを食べて出かけ、帰ってきた私の前にまた朝と同じパンが供された。夏子は1日何も食べずにいたのだ。そして、こともなげに言った。
「ねえ、こんな貧乏な暮らしはこれからはきっともう味わえないと思うのね。だからパンが2個しか買えない今を、一緒に楽しみましょうよ。」
 「妻にはかなわない」正直そう感じた最初の瞬間である。三十年の間には、あの頃と同じような貧しさもあったが、夏子の懐の深さにどれほど救われたかしれない。家庭の本当の安らぎを得られたのも彼女のおかげなのだとしみじみ思う。
 「あら、コスモス。もう咲き始めたのね。」
夏子のやわらかな笑顔が、振り向いた私を迎えた。いつか伝えよう。
「君と一緒の人生、素晴らしいと思っているよ。」

2000.7.23  am.2.20

2003年5月15日 有事3法案可決

2003年5月14日 有事3法案衆議院可決

2003年5月15日 有事3法案参議院可決

私達は日本の戦争への道を開く法律の制定を許した。平和への道を閉ざした。未来の人たちに、もはや申し開きは出来ない。しかし、いつかこれらを廃案にすることは国民の知恵を持ってすれば可能であろう。希望は捨てまい。

首相 小泉純一郎

有事法制関連3法案の全体像(2003.5.14 朝日新聞夕刊より)

武力攻撃事態対処法案

○ 武力攻撃事態対処の基本理念、国と地方の責務・役割分担、国民協力
○ 事態対処のための手続き(対処方針の決定、対策本部の設置など)
○ 事態対処に関する必要な法制の整備(国民保護、自衛隊・米軍の行動の円滑化等)
○ 救急事態に対する組織のあり方について検討

自衛隊法等改正案

○ 土地使用の簡素化
○ 物資保管命令違反の罰則など

安全保障会議設置法改正案

○ 事態対処のための安保会議の役割強化(専門委員会の設置など)

上高地帝国ホテルと穂高
辺りは柔らかく薄緑色に芽吹き始めた白樺の林、裏にはこれも
点々とエメラルドを散りばめたような芽吹きを見せた唐松林があり、
爽やかな風が肌に心地よい。
お部屋の窓から5月の日差しが差し込み旅の疲れをほぐしてくれる。
白樺林の間から乗鞍岳が残雪を戴いている姿がみえた。

桜が満開であったので、花見がてらみんなで散歩に出かけてみた。
桜の木の下には、一面の2輪草。淡い紫がかったピンクをほんの少しだけ
花びらの裏側ににじませて、白く可憐な花を咲かせていた。
桜の花が散る頃には、2輪草の白い絨毯が敷かれることだろう。
シーちゃんは2輪草との出会いをいたく喜んでいた。

少し濃いめの桜の花と白樺の白い木肌、芽吹いたばかりのやわやわとした緑が
五月晴れの青い空に縁取られている眺めは、贅沢なものであった。
振り向いたら、穂高も見えてこれまた素晴らしいロケーション。
絵筆を持ってスケッチしているおじさんに会えた。
                        小梨の湯 笹屋にて

大正池の水はエメラルドグリーンで、幾種類もの柳の芽吹きと唐松の芽吹きを
映していた。間近に迫る焼岳は噴煙をあげ大正池の成り立ちを物語る。
遊歩道を河童橋の方に遡っていると、笹が「たった今雪が解けたのです」と
いう状態になっていて、遊歩道の林の中には残雪があちこちに見られ遅い春が
しのばれた。
大正池や梓川につがいのマガモが多くいて、水辺から上がってきて
人なつこく寄ってくるのであった。
ウグイスは、自慢の喉を披露してくれていたが、啼き疲れるまで
の大サービスには笑いを誘われた。

梓川の雪解けのきれいで豊かな流れを見飽きずに見ながら歩いた。
穂高がどんどんと近くなり、グンと迫ったところが河童橋であった。
明神池は次回に回ることにして、早い山の夕暮れを感じながら
タクシーの客となった。
                           上高地にて

今年は2度も春に出会えた。
                    2003年5月9日〜10日

2003年5月3日 憲法記念日

 1947年5月3日から施行された日本国憲法。ある政治的意図を持った人たちに改悪されてはなるまい。

2003年5月1日 ブッシュ大統領による戦争終結宣言。

大統領演説骨子(5月2日朝日新聞夕刊)

1、イラクでの主な戦闘作戦は終結し、米国と連合軍は勝利を収めた。我々は自由の大儀と平和のために戦った。

1、我々はイラクの危険な地域に秩序をもたらす。旧政権の指導者を追跡している。

1、隠された化学・生物兵器の捜索を始めた。調査すべき何百もの場所を把握している。

1、イラクの再建を支援する。独裁から民主主義への移行には時間がかかる。任務が完了するまでイラクにとどまる。

1、イラク解放はテロとの戦いにおける決定的に重要な前進だ。

1、我々はアフガン、イラク、パレスチナに自由をもたらす決意がある。

2003年3月20日 アメリカ・イギリスによるイラク攻撃開始。戦争勃発!           アメリカ ジョージ・ブッシュ大統領                   イギリス トニー・ブレア首相

   小泉純一郎首相はアメリカを支持。

   私達は、戦争を止めることが出来なかった。

2001.7.7 美ヶ原高原の夜明け(ご来光拝観)

 朝3時55分、浅間山の後ろから南よりにかけて暗い藍色の空にかかった雲が紅に染まっている。山上近くに星がひとつキラキラと輝き夜明け前の風景を効果的に演出している。浅間山から南に妙義山、荒船山(秩父連峰)、蓼科山、八ヶ岳、富士山、霧ヶ峰、甲斐駒ヶ岳・北岳・仙丈岳・塩見岳(南アルプス)。北に三方ヶ峰、鳥帽子岳、白根山、四阿岳、根子岳、笠岳が雲海のまにまに黒々と浮かんでいる。手前の高原の谷は雲海で埋め尽くされ、その深さは初めての者には伺い知ることが出来ない。ぽんと雲海にのって、すたすたと一直線に歩いていけば苦もなく八ヶ岳にだって着けそうである。南の空には淡いオレンジ色のわずかに下弦の月が、やはり淡いオレンジ色の雲をそばに従えて太陽との交代を待っていた。

 4時10分、霧がどこからともなくわいてきて流れる。高原はかすみ、浅間山が隠れ、東の上空の雲がゴールドに輝くのみ。しかし2分もしないうちにまた霧は晴れ雲海と山脈のシルエットを映し出した。あたりの雲は紅に染まり、その範囲を広げていく。ち、ちちち、ちちと鳴きながら岩ツバメが素早く、あるいは羽をふるわせながらとび交う。ウグイスがホー、ホケキョケキョケキョと姿を見せずに上手な歌を聴かせてくれる。

 4時20分、南寄りの雲海からわきあがったモクモクとした雲(それは雪原にある雪に埋もれた木々のような、あるいは小さな積乱雲のような)が陽の当たった部分を光らせ始めた。南の雲にも陽が届き、薄いピンクに染まっている。カメラマン達のフラッシュが時々光る。

 4時30分、まわり中の雲が紅やオレンジ色に染まり、雲海は淡いピンクにみえる。今昇るのかと一瞬たりとも目が離せない。陽に照らされた雲の色が刻々と変化し見飽きることがない。南の雲はオレンジ色になってきた。人たちが強い風に浴衣の裾をなびかせて、空気の冷たさに腕を交差させて自身の肩を抱いている。高原を太陽の昇る方向に移動している人たちもいる。広々と起伏を見せて展開される高原の風景の中程に「美しの塔」が小さく見える。牛たちの影は見えない。

 4時40分、正に陽が昇らんとしていることがわかる。雲の縁はゴールドに輝きその上部はオレンジ。紅の部分はもうない。あたりの高原はその本来の草色を現し、山並みは淡いバイオレットグレーとでもいった色に変化している。浅間山の手前の雲海は雪原そのもののように見える。その雪原様の雲海にかすかに、そして見る間にはっきりと浅間山の影が現れた。雄大な影である。

 4時43分(見とれていたので正確な時間が?である)、浅間山の上部に一瞬、1万カラットのダイヤモンドが輝いた。と、秒を待たずに太陽はぐんぐんと昇り、あっという間にその全形を山上に現し、南の雲にかすかなピンクを残してあたりはすっかり朝の色となり、繊細でいながら壮大な夜明けというドラマの幕は下りたのであった。

 明ければ、真っ青な空に白い雲、嶺みねに残雪をいただいた美しいそれぞれの山が、きりっとした空気の中に雲海を従えてそびえたつ。岩ツバメは忙しくとび交い、ウグイスは歌い、カッコウが遠慮がちに鳴き、花々は黙してもその美しさを誇り、朝露は無数の小さな宝石と化してこぼれ輝き、七色の光を惜しげもなく振りまいていた。

 自然に乾杯!人に乾杯!今、生あることに乾杯!

2001.7.6〜7.7

 市作連の職員研修旅行。長野県美ヶ原高原 王ヶ頭(おうがとう)ホテルへ。まずは諏訪湖畔の原田泰治美術館へ。独特の筆致で描く原田の世界から、自然の中で暮らす事の豊かさを改めて感受した。顔がないのに表情が伝わり(いや、顔がないからよけいにということか)彼の人と自然への暖かな思いが見る者の心に浸透してくる。

 一路美ヶ原高原へ。なんと、一般車両は山本小屋の駐車場までしか行く事が出来ず、駐車場からホテルまではホテルのバスでの送迎であった。駐車場に着いたとたん雨となった。2000mの高原は濃霧に包まれホテルの社長が運転するバスの前もよく見えない状態ではあったが、車中は社長のジョークの効いた解説や注意で爆笑のるつぼとなっていた。この濃霧を利用して、人工の光源を用いて「ブロッケン現象」を疑似体験させてもらえた。また四季折々の高原の映写会も催され、居ながらにして四季の風景をみて、花を見ることの出来ない欲求不満を解消した。

 ご来光を見るために朝4時5分前に起床。夕べは濃霧で何も見えなかった窓に、見事な雲海と黒々と八方を取り囲む山脈、広々とした高原、そして東に太陽が昇ると確信できるオレンジ色の雲。「みんな起きて!」と思わず叫んでしまった。浅間山をシルエットにさせ、雲を様々な色に変化を見せながら彩り、雲海と流れる霧の舞台装置は完璧で、それはそれは美しく感動的な50分間のご来光のドラマを見ることが出来たのであった。

 食事の前に社長の案内で高山植物を見に出かけた。薄雪草(エーデルワイス)、手形千鳥、車軸草、日光キスゲ、コメツツジ、黄花山おだまき、ハクサンフウロ、レンゲツツジ等々を教えてもらい、360度ぐるりと横たわった秩父連峰、八ヶ岳連峰、南アルプス(北岳など)、中央アルプス(木曽駒ヶ岳など)、御嶽山、乗鞍岳、北アルプス(穂高や槍ヶ岳等)、剣、立山連峰、白馬三山、戸隠山、高妻山、黒姫山、白根山、噴煙を上げる浅間山等といった山々の名前を説明してもらった。山本小屋まで歩き組とバス組に別れてそれぞれにホテルを出発。歩き組に加わり、高原の空気で体中を満たしながら、小さな宝石のごとく無数に輝く朝露、牛や花々、山並み、青空で目と心を40分間めいっぱい楽しませた。松本へ向かうバスの中から、コウリンカとヤナギランの花を見ることが出来た。

 松本市で自由行動。松本城に上って見学した後市内で土産を買い、食事はやっぱり「そばでしょ」とそばにする。喫茶店に入ってゆっくりした後バスに戻り、無事帰宅。楽しく有意義な研修旅行であった。

 バスの運転手さん、ホテルの皆さん、幹事さん、そして各作業所の職員の皆さん本当にお世話になりました。ありがとうございました。

2001.6.17

 池田小学校で起きた事件の犯人は、精神障害者を装って犯行に及んだのではないかという報道がされている。どうすれば法の網をくぐれるかということを勉強していたらしい。

 精神障害で苦しんでいる人たちへの冒涜だけに納まらず、一般の人たちの誤解を生み、ますます生活しにくくさせてしまった事件である。実際、精神障害を持つ人の犯行よりも、もたない人の方が割合からいってもずっと多く事件を起こしている。

 最も、とりあえず今普通に暮らしていても「ヘン」な人は多いわけで、障碍がどうのこうのの問題ではないかもしれないが。それを裏付けるような信じられない話を聞いた。

 制服編

 電車の中で席を譲らなかった、うるさくおしゃべりしていた、ということで会社へ忠告の電話有り。

 犬が塀から急に顔を出したので驚いて悲鳴を上げたら、飼い主は顔も出さなかったのに会社に「うちの犬を罵倒した」とお叱りの電話。

 歩いていたら、空のプラスチックの植木鉢がズボンの裾に当たったかして倒れたことを知らずに通り過ぎようとしたら、「こらあ〜、待てっ、植木鉢を倒しただろう!」と言われ「済みません」と謝って直したが許さず、側にあった物を投げつけてきた。あげく会社に電話しろといわれ、上司が菓子折をもって謝りに来るまでそこに待たされ嫌みをいわれ続け、上司が来てもまだ嫌みをいっていたがなんとか帰ることが出来た。

 まだまだ列挙にいとまがないが、こういったことをする人たちって精神状態がどうなっているのだろう。所属の判る制服を着ていることで、彼らに蔑みのまなざしを浴びせて、人間扱いをしなくてもいいとでも考えているのだろうかと疑うほかない。自分さえ気持ちが良ければ、自分の鬱憤さえ晴れればそれでいいという考え方、それは正にあの陰湿な「いじめ」の巣だ。こんな大人が数え切れないほどいるのだ。

 こんな現実さえ知らずにいた自分が恥ずかしい。こんな理不尽な思いに苦しめられている人が多いこともあまり知らずにいた。どうしたらもっとみんな住み易くなるんだろう。私がこれからしなければならないことは何だろうか。自分も「ヘン」な人になっていないかを見つめ、またこれからならないでいるためにも深く考えなければならない。

 

2001.6.8

 痛ましい事件です。大阪教育大学付属池田小学校で、1年生1人2年生7人の児童が包丁で刺され亡くなりました。教師を含む15人の児童が重軽傷を負いました。突然37歳の男が教室に侵入して来ての凶行だったようです。自分の横にいた、今まで笑っていた友達が血まみれで倒れて、そして亡くなったのを目の当たりにした児童達の心の傷は、どう癒されるのでしょうか。怪我をした児童達のあまりに深い心の傷は償うべくもなく、ましてや亡くなられた児童達の魂は……。ご遺族の方や、心身に傷をもった児童のご家族達の心労はいかばかりかと、あまりの痛ましさに胸が痛くて声も出ない思いです。心からお見舞い申し上げ、ご冥福をお祈りします。

 犯人は何度も自殺を試みたが死にきれなかったので事件を起こし、死刑にして欲しいといっていたようです。何という身勝手さでしょうか。心が病むことは心の闇を作ることでもあるのでしょうか。

俳句

2001 .4.19

名に違(たが)う 一人静や 群咲けり

2001.4.8
健やかな 魂に触れたり 花祭り

2001.4.3
修羅住めり 嘆きいし身の 桜花
屈託を 持て余しをり 花の宵
疑えば みな符合せり 花あらし
師の深き 我は届かじ 宵桜

 2001.3.10〜11
 5年ぶりに「いっしょの会」の仲間が3月10日「いこいの村たてやま」に集いました。5組の夫婦と2人の男性。つい昨日別れた仲間のように「やあ」で済んでしまう挨拶がいいですね。「ああ、変わらずにいてくれた」と心から安心しました。
 Y君は2年前手術の甲斐なく突然寝たきりになり、リハビリの結果右手が使えるようになったのです。酒豪で日本男児を絵に描いたようだった彼にとって、どうしたらいいか全くわからないほどの苦しみだったことでしょう。何度悔し涙にくれたかと思うと胸が苦しくなります。夫人のTさんの悲しみとつらさも私には理解できないほどの深いものであったでしょう。彼女は「どうしていいのか解らなくて、気が変になりそうなこともあったけど、同じ病気を抱えている人たちの病室に入ったとき、胸のつかえがとれてすーっと気が楽になるのが解りました。それからは結構元気になれたんですよね。いまではなるべく彼と外に出ていろんな人と会うようにしています。」と明るく笑って言いました。精神的に逞しくなった、小柄な彼女に仲間から拍手喝采です。
 大分県から駆けつけたH君。ボーイスカウトで忙しく活躍していて、今回も行事の準備を整え、後ろ髪引かれる思いでの参加のようでした。歩くマラソンで優勝した経験があり、健脚です。夫人のRさんは参加できませんでしたが、明るくて気さくで良く気がつき、賢夫人ぶりがうかがえて1度しか会ってない人とは思えません(電話で話した感じです)。
 K君は一人で参加。彼は在日韓国大使館特命全権大使からの日韓友好親善の証である感謝文をいただいたりと、私たちの知らないところで活躍しています。30年前と変わらない容姿で髪が真っ黒なんですよ!結婚したときに会ったきりの夫人Eさんは、今回も参加していただけませんでしたが忙しく、充実した日を送っているらしいです。
 T君は夫人のMさんと一緒に元気な姿を見せてくれました。T君は社交ダンスに夢中になり、60歳〜92歳のおばあさんにもてもてですっかりおしゃれになっていました。T君のお母さんは痴呆が始まって、Mさんが面倒を見ているようです。彼女の介護理念こそ本物です。放っておけば3日で寝たきりになるからと、散歩に連れ出したり声かけをしたりするのです。おむつは夜だけにして昼はなるべく簡易便器で用を足させ、その労力もさることながら、いやがる相手に下着の上げ下げをリハビリのためと自分の手でやらせる精神的な労苦は、想像を絶するようです。それでも寝付くより、孫達のいる家で一日でも多く過ごして欲しいと願って、実行しているその気持ちは神々しいばかりと言えるでしょう。MさんはTくんの自営業の手伝いもしており、決して暇ではなく、うまいストレス発散方法を見つけてはとびきり元気にしているのです。
 会社を退職したK君は、夫人のMさんと参加。博識の夫人の話を嬉しそうにおっとりとニコニコしながら聞く、優しいK君。Mさんは自分の知っていることを少しでも悩める人の役に立てばと、真剣に話を聞き答えてくれる真面目で優しい思いやりのある人なのです。
 T君は夫人のSさんと共に今回の集いを計画してくれました。旅行が好きで、少しも厭わずみんなのために世話をしてくれます。おやつや飲み物の心配り気配りに遺漏はなく、会計も担当してくれます。Sさんは気配りが自然に出来る優しい人で、今仕事にも燃えています。
 最後は私たち夫婦。とりあえず問題なく、一番脳天気で幸せなんじゃないかと言われています。真意の程はわかりません。